序章
このたび平成23年度より、大國魂神社御本社太鼓講中として新たに講中が参加させていただく
こととなりました。 その太鼓講中の名称は『石川講中』であります。新たにとはいえ、その発祥
は古く、わかっているだけでも明治32年、いまから112年前には太鼓講中としてその一線に登場
いたします。 その後は約半世紀前に講中としてのお付合いが途絶えてしまったものの、紆余曲
折を経て現在の「カタチ」へと変化してまいりました。
ここでは過去の歴史をひもときながら、その足跡を辿り、これからの新しい組織体制と活動目
的を解説させていただきます。 とは申しましても、過去の歴史部分においてすべての調査が終
わっている段階ではありません。何しろ現在では、当時のことをはっきりと覚えている人はもう
数える程しかおりません。 また資料や記録物が少ないのも一つの理由ですが、なによりも著者自
身の不勉強のため手間取ってしまいました。 時間的な隔たりは、時に壁となり、調査中はさまざ
まな疑問にぶつかりました。 それほど御本社太鼓講中を取り巻く環境の複雑さと、例大祭の大き
さを物語っているように感じました。 ある時には過去の先人達に試されているような感覚を覚え
、使命感に燃える想いでの執筆となりました。
幸運にも、当時石川保木講中の役員であられた飯島弘一氏にご協力を依頼することができ、昭
和初期頃から講中が解散する後期頃までのお話しを中心に、 聴取り調査をすることができまし
た。2年間にわたりご訪問させてもらい、体調がすぐれない中でありながらも、様々なことを教
えていただくことができました。 また府中町内の方々、御本社太鼓講中の方々、地元石川の方々
が、過去のお話しや資料を提供してくださり、そのなかではじめて知る事実に驚かされることも
ありました。 石川地域を中心に郷土史を研究なさっている、横溝潔先生におかれましては、そ
の研究成果を本文の中で、非常に多くご活用させていただきました。 今回調査にご協力いただ
いた方々に対しましては、心から御礼を申し上げる次第であります。
本文は不十分な箇所が多々ある内容とはなりますが、現時点でわかっている事柄をここにまと
め、古くて新しい石川講中をより多くの方々に知っていただければ幸いであります。
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はしがき
石川講中ときいて、大國魂神社の御本社太鼓講中だったとつながる方は、府中の例大祭関係者
の中でも少ないのではないでしょうか。 しかし、保木講中といえばいくらか聞いたことがある
といった感じでありましょうか。そもそも石川講中、保木講中とは一体どのあたりの地域を指し
ており、 またどのような講中組織だったのでありましょうか。
結論から申しますと、実はこの二つの太鼓講中は、地域性も組織もまったく同一の講中なので
あります。 石川講中を語るうえでは、まずこの保木講中との関連性についてみていく必要があ
ります。
でははじめに次の一覧をご覧頂きたい。
小金井貫井
小平市廻り新田
小平上鈴木
小平堀端鈴木
小平下鈴木
小平小川山谷
小平小川新田
小平通り野中
小平堀端野中
都筑郡山内村石川
都筑郡元石川町保木
都筑郡向岳村平
大泉村小樽
埼玉県片山村栗原
神代村入間
保谷町下保谷
小平大沼田新田 |
:東京都小金井市
:東京都小平市
:東京都小平市
:東京都小平市
:東京都小平市
:東京都小平市
:東京都小平市
:東京都小平市
:東京都小平市
:神奈川県横浜市青葉区
:神奈川県横浜市青葉区
:神奈川県川崎市宮前区
:東京都練馬区
:埼玉県新座市
:東京都調布市
:東京都西東京市
:東京都小平市
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1.御本社太鼓大警固提灯より
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これらの地名は、御本社太鼓講中の上乗りが使う、大警固提灯に残されている講中名でありま
す。 現在、例大祭に参加している講中はこのなかの5つでありますが、このうち石川講中とは都
築郡山内村石川のことを指します。 大國魂神社を中心とする太鼓講中としては最南端に位置し、
横浜唯一の太鼓講中でありました。
またこの大警固提灯には、都築郡山内村石川と並んで都築郡元石川町保木という地名がみられ
ますが、 これが俗にいわれる保木講中のことを指します。はじめてみられる方にとっては、こ
の二つの地名が別地域の太鼓講中だという見解になるのが自然でありましょう。 しかしながら、
先にも述べましたように、大警固に記載されているこの二つ地名は同一の講中組織であり、 時
代によってその地名が変わり、太鼓講中としての名乗り方やうけとられ方が変化しているので
あります。
ではなぜ大警固提灯には、このような二つの地名が残されるようになっているのでしょうか。
そのことに関しましては後に述べることにいたしまして、まずはその同一性についての根拠を
説明していく必要がございます。 そこで大きく三つに分け、順序立てて説明をしていきたいと
思います。一つ目は、これら二つの地域の概要と移り変わりについて。 二つ目は、記録物から
みえる過去の石川講中と保木講中です。そして最後は、大警固の提灯記載についてであります。
2.大國魂神社の太鼓とそれをめぐる習俗Ⅱより

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①地名と行政沿革
都筑郡(提灯記載は都築郡だが正確には都筑郡)とは、武蔵国にかつて存在した22郡のうちの
一つである。 都筑郡山内村は、1889年(明治22年)4月1日に施行された市制・町村制により
誕生した。 当時、神奈川県都筑郡石川村といわれた保木(小集落)を含める一帯が、隣接する同
じく都筑郡荏田村・黒須田村の飛地と合併してできた大きな村である。 ここでは山内村の詳細
は割愛し、その村の中でも、太鼓講中として府中との関係が深かった石川と保木を中心にみて
いきたい。 重複するが石川とは、山内村が誕生したことにより消滅した旧石川村のことであり
、その後できた都筑郡山内村の大字となる。 これが大警固に残されている
「都築郡山内村石川」である。また保木とは、小名(こな)といわれる小集落であり村内の小
字(こあざ)である。 石川村といわれていた時代は、このいくつかの小名によって構成されて
おり、その範囲は東西に長く広がっていた。
「新編武蔵風土記稿」に都筑郡石川村はこう記載されている。
石川村 石川村ハ郡ノ北二アリ古ハ小机庄ナリシカ今ハ唱ヘス江戸日本橋ヘハ七里ノ
行程ナリ當村南ヨリ北ヘカヽリテ山多クスヘテ土地平カナラス土性ハ眞土ヘナ土交レリ水
田多ク陸田少ナシ村ノ廣サハ東西ヘ一里餘南北モ十八丁ハカリ四隣東ノ方ハ橘樹郡
有馬土橋ノ兩村ニ界ヒ西ハ王禅寺村ニテ南ハ大場黑須田又鐵三村ニモツヽケリ北ハ橘樹
郡下菅生村ニテ巽ノ方ハ荏田村ノ地ニ隣レリ家藪スヘテ二百六十七軒當所小田原北条
國ノ頃ハ小机石川鄕八十四貫九百二十七文吉田トソノ分限帳ニアリ御入國ノ崇源院殿ノ
御化粧料ニテ大久保石見守長安預リ奉リ貢税ハ酒井讃岐守忠勝ヘ納メシトソ寛永九年
隣村王禅寺村トヽモニ增上寺ノ御靈屋料トナレリ謦ソ地ハ寛永九年ニアリシト云用水ハ
谷々ヨリ出ル淸水合シテ一條ノ流レト
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この地誌によると、当時の石川村は都筑郡内の北側にあり、東方は橘樹郡有馬村・土橋村、西
方は王禅寺村、 南方は大場村・黒須田村・鉄村、北方は橘樹郡下菅生、巽方(東南)には荏田
村が隣接していた。 現在では横浜市青葉区の東部にあたる。当時の家数は267軒。また、村の
土地面積として小田原北条時代には貫高84貫927文とされている。 貫高とは田地の面積、その
田で収穫することのできる平均の米の量を通貨に換算し「貫」を単位として表したものである。
そしてこれを税収の基準にする土地制度を貫高制と呼び、戦国時代の後北条氏の例を用いると、
田んぼは一反=500文、畑は一段=150~200文であったという。 ただし、同じ貫数でも土地
の条件などによって実際の面積は異なる。 ちなみに明治18年の貧富一覧表(県史17)によると、
石川村の耕地面積は田64町余、畑142町5反余、宅地18町4反余、山村原野343町2反あまりと
されている。 参考までに面積は一町=10反=100畝(歩と同じ)=3000坪で、一町は9917㎡
で、ほぼ1万㎡とみなす。
また石川村は、崇源院殿の御化粧料と記載されている。崇源院とは徳川2代将軍秀忠の正室お
江(おごう)のことであり、 御化粧料(領)とは夫人の生活費用を意味する。1590年の徳川家康
関東入り頃より定められ、その後秀忠の死去により、 寛永9年に芝増上寺に建立された秀忠(台
徳院)と、崇源院の霊廟管理のため増上寺に寄進され御霊屋料(領)となった。 この御霊屋領(寺
領)は、維持費を賄うため徳川家から寄進されているため、幕府直轄領、旗本領、大名領でもな
い。 寺領の農民は助郷役、国役金などの負担が免除され様々な特権が与えられていたという。
次に、石川村には小字がいくつかあり、「新編武蔵風土記稿」には保木(ほうぎ)、牛込(う
しごめ)、平川(ひらかわ)、 船頭(せんどう)、枝子田(えこだ)、胸つき坂、中村(なかむ
ら)、小屋場(こやば)の8ヵ所が記載されている。 しかしその他にも33ヵ所の小字があった。
(下記絵図参照)
3.都筑郡山内村全圖より(絵図は昭和5年頃の旧石川村全域と33ヵ所の小字)

では、石川村をもう少しほりさげて、その村内の保木についてみていきたい。
「新編武蔵風土記稿」に保木は「保木 村ノ西ヨリニアリ」とある。絵図のうち右上が保木の
位置する一帯である。 石川村の上(かみ)に位置しており、村の中心を流れる早淵川の源流が
ある。
保木にはさらに小字が4つあり、保島(ほじま)・保野(やすの)・関原(せきはら)・嶮山
(けんざん)という地域がそれである。 余談ではあるが、この4つの小字にはいわれがあり、
保島の島は飯島の島であり飯島姓が多い。保野の野は小野辺の野で小野辺姓が多い。 関原の
関は関戸の関で関戸姓が多い。嶮山はその名のように険しい山林地帯であった。 保島・保野・
関原は保木のそれぞれの下・中・上にあたる部分であり、現在これらの字名は公園や標識に残
されるのみである。
この保木に古くは1663年(寛文3年)銘の名号塔があり、そこには保儀村と標記されている。
石川村でありながら保儀村と名乗っていたこの辺り一帯は、村の中の村といわれ地域の独立性
が高かったのではないかと推測されている。 また保木薬師堂には薬師如来像が安置されていた。
製作されたのは1221年(承久3年)であり、現在は神奈川県の重要文化財として県立博物館に
寄託されている。 さらに古いものでは、縄文時代前期の土器片が発掘されるなど、8ヵ所の遺
跡が確認されている。
このような歴史背景を持つ保木一帯は、1939年(昭和14年)4月1日に横浜市に編入され、神
奈川県横浜市港北区元石川町字保木となる。 元石川という地名は旧石川村を残すことを地元の
人々が望み、編入前の横浜市内にある石川町(中区石川町)と区別するために、 「元」の字を冠
して元石川町となったといわれている。この横浜編入以降に大國魂神社例大祭で名乗ったのが
「都築郡元石川町保木」なのである。 ちなみに、1969年(昭和44年)には港北区から分立し緑
区となり、1989年(平成元年)には元石川町字保木から美しが丘西になる。 その後1994年(平
成6年)に青葉区が誕生し、現在保木といわれる地域は、横浜市青葉区美しが丘西となっている。
以上、石川村保木の行政区分の移り変りをまとめるとこうである。
・1868年
・1868年
・1871年
・1873年
・1874年
・1878年
・1884年
・1889年
・1939年
・1969年
・1989年
・1994年 |
(慶応4年)
(明治元年)
(明治4年)
(明治6年)
(明治7年)
(明治11年)
(明治17年)
(明治22年)
(昭和14年)
(昭和44年)
(平成元年)
(平成6年) |
神奈川府都筑郡石川村
神奈川県都筑郡石川村
第28区
大6区7番組
第6区第7小区
神奈川県都筑郡石川村
荏田村外一か村
神奈川県都筑郡山内村大字石川
神奈川県横浜市港北区元石川町字保木
神奈川県横浜市緑区元石川町
神奈川県横浜市緑区美しが丘西
神奈川県横浜市青葉区美しが丘西 |
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②記録からみる石川講中と保木講中
さて、石川講中と保木講中が同一の講中であったということに話を戻す。 ここで、はじめに
説明しておかなくてはならないことは、当時石川村の地域全体が、太鼓講中としての関わりを
もっていた訳ではないということである。 先にも述べたが、主に太鼓講中として府中側と関わ
りをもっていたのは、石川村内の保木といわれる地域の人々である。 つまり石川には石川の、
保木には保木の独立した太鼓講中があったということではない。 その理由として、現在にも過
去にも旧石川村圏内に、大國魂神社例大祭の影響を受けて奉納された大太鼓は唯一保木にしか
ない。 また聴取り調査においても石川村で保木以外の地区が主となり太鼓講中として活動して
いたという話しはなく、記録や文献もない。
ではここで、過去の記録にでてくる石川講中と保木講中に関するものをあげ、これらを基に
その同一性を検証してみる。ここでは年代の古いものからあげていく。
現在、東京都小金井市にある貫井神社の拝殿には旧御本社太鼓が保管されている。 この太鼓
は1899年(明治32年)に奉納され、現在の御本社太鼓ができるまでの約50年間先払い太鼓と
して活躍してきた。 その胴裏には「明治卅弐年己亥 五月五日新造之」とあり、その下に「貫
井 野中 廻り田 世田ヶ谷 清水 向丘村平 片山村栗原 石川村保木」と刻まれている。
これらの村名はその当時の太鼓講中名であり、今では途絶えた古い講中名もみられる。 ここ
に「石川村保木」とでてくる。これ以前の石川保木に関する記録は、現時点で確認できていな
いが、 太鼓が製作されるまでの日数や奉納までの経緯を考えると、その関わりはもう少し前
にさかのぼれるであろう。
4.貫井神社拝殿の旧御本社太鼓
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次に、大正15年時点で調べた「付属講社調査書」(大國魂神社蔵)によるとこうである。 御
本社太鼓講中 (貫井)小金井講中15名、上鈴木講中20名、北野講中25名、下保谷講中30名、
石川保木講中25名、向ヶ丘講中7名、清水講中10名、片山講中40名 この調査書は、大國魂神社
の例大祭に関わる講組織を記述したものである。その内容は神輿講中、太鼓講中に留まらず、
それ以外の講中についても調査している。
昭和27年に現在の御本社太鼓が奉納された。この頃は、例大祭の内容もかなり活発化してい
た時代であり、例大祭関係者方にとっても、 くらやみ祭りを語るうえでベースとなる時代では
ないだろうか。 この時代に新調された御本社太鼓の胴に「元石川町保木」と刻んであり、その
横には当時の役員の個人名が記載されている。 また、胴面末尾には「保木町青年會」とある。
そして、この太鼓を新調する際にまとめた募金帳が現在でも残されている。 後に詳しく内容を
記述するためここでは省略するが、このなかに「保木講中」として、寄付金額とともにその名
がでてくる。
5.昭和27年製作御本社太鼓胴面
最後は、府中番場町にある「府中番場町例大祭勘定帳」からあげてみる。 これは、昭和5年
から55年まで祭礼時の収支表を記載しているものであり、このうち収入の部・到来金内訳に
太鼓講中による花掛けがでてくる。 この帳簿は記載年が断片的ではあるが、石川保木に関し
ては次のようなものがある。
昭和5年 |
保木太鼓講中 |
2円 |
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昭和21年 |
石川保木講中 |
20円 |
昭和10年 |
保木青年 |
2円 |
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昭和25年 |
保木太鼓講中 |
300円 |
昭和15年 |
石川保木講中 |
2円 |
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昭和30年 |
石川太鼓講中 |
300円 |
この勘定帳にみられる太鼓講中は、石川保木講中以外に小平小川新田講中が昭和21年にみ
られるだけで、そのほかの太鼓講中名は記載されていない。 これは石川保木講中が例大祭中、
府中番場町の関係者に宿舎を提供してもらっていた関係から、そのための花掛けをしたのだ
と思われる。 また、昭和10年には保木青年という名称での花掛けになっている。保木青年と
は地元の青年会(青年団ともいう)のことであり、 保木ではこの青年会メンバーが、自ずと太
鼓講中として府中の例大祭に参加するようになっていたという。 同じようなことで、元講貫
井講中でも昭和10年頃まで、青年団に入った者は例大祭に全員集合であり、点呼をとられ不
参加の場合は金銭徴収があったという。
この勘定帳をみると、その年により名乗り方にばらつきがあるが、石川と保木の同一性がは
っきりとわかる。 先に行政沿革のところで説明したが、昭和14年には石川という地名が消滅
したにもかかわらず、勘定帳の30年には、むしろ石川を強調するかのようである。 こういっ
た記録は参加状況が明確に知ることができ、その当時の背景を知る大変重要なものといえるで
あろう。
以上、ここまでに記した石川保木講中に関する記録物は、現時点で確認できているものの全
てである。 これらはみな府中側に残されているものばかりであり、石川保木地域には講中に
関する記録物が一切残っていない。 これは残念というよりむしろ不思議である。
さて、元々は石川保木講中が正式な名称として府中側に通っていたといえばそれまでである
が、 現在では講中関係が途絶えてしまってからの時間的な隔たりが、この講中を別々のもの
にしてしまったかのように思える。 しかし、年月の空白だけが理由ではなく、物的なものもそ
の理由の一つではないだろうか。 それは大警固提灯の記載である。そもそも、石川と保木の地
名を別々に提灯記載しているため混乱する要因となっているのだが、 では最後に、なぜ二つの
地名が提灯に記載されたのかを検証してみたいと思う。
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③提灯記載の誤りについて
この大警固提灯に、太鼓講中の村名が記載されるようになったのがいつ頃からなのかはっき
りとしないが、提灯記載されているなかで、 一番新しい地名は保谷町である。保谷町は1940
年(昭和15年)の町制施行により誕生した町名である。 現在では西東京市になっている。提
灯記載にこの保谷町が出てくるのであれば、少なく見積もっても昭和15年以降から現在の形に
なっていったのだと推測できる。 この大警固提灯の製作・書き入れをおこなってきた、府中
市内にある内藤提灯店の店主にお尋ねしたがその経緯まではわからなかった。
さて、この大警固提灯にはいくつかの誤りがみられる。例えば都築郡元石川町保木であるが、
(2)の行政沿革のところで記述したように、 都筑郡山内村大字石川は昭和14年には横浜市に編
入しており、その後石川保木地域は横浜市港北区元石川町となっている。 この時点で、都筑郡
は消滅しているので都築郡元石川町保木という地名はおかしな地名である。 正式に講中地名を
名乗るのであれば、横浜市港北区元石川町保木といったところか。
次に都築郡向岳村平であるが、この地域は現在の神奈川県川崎市宮前区平である。郡制当時
は都筑郡ではなく橘樹郡であるはず。 であれば正確には橘樹郡向岳村平と記載されるべきであ
る。
最後に「都築郡」の部分に関してであるが、本来の字体は都筑郡であり誤字がみられる。
このように提灯記載への誤りも考えられ、なんらかの経緯で二通りの地名が記載されるよう
になったのではないだろうか。 結局のところ確信的な答えにまでは至らないのだが、時代の
変動と講中内での代替わりという様々な条件が重なり、 石川保木講中を二分化するという偶
然の産物を生み出したのではないかと思われる。また年配の方々からいわせると、 当時は結
構いい加減なものだったから、細かいことはあまり気にしていなかったのではないかという話
も聞く。
しかし、どのような理由であっても半世紀近く空白の時間が経過しているにも関わらず、い
まだ古い講中名が提灯に残されている事実には脱帽である。 そこには、伝統と格式を重んじ
る御本社ならではの威厳と懐の深さを感じずにはいられない。
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④講中参加期間
石川保木講中が、大國魂神社のくらやみ祭りに太鼓講中として参加し始めたのは、明治30年
代頃だと飯島弘一さん(86歳)は言う。 「父親(故飯島武平氏)が明治16年生れで、その年代
の人達が何名かで府中の祭りに行っていたよ。」
府中市の中央図書館にある「大國魂神社の太鼓とそれをめぐる習俗」(府中市教育員会編)
によると、石川保木では明治32年、 大正15年、昭和27年、昭和33年に参加していることが
記されている。先述したが、小金井市の貫井神社拝殿に保管されている先代の御本社太鼓は
明治32年に奉納されている。
先代の後に、石川保木講中の役員となった弘一さんは当時をこう語る。「私は昭和14年に
15歳で祭りに連れて行ってもらい、 それからは毎年のように参加していたよ。今の太鼓にな
る前(貫井神社保管の大太鼓)からで、 その当時喧嘩沙汰は毎回のようにあり、こっちの人
間も帰ってくる頃にはボロボロになっていたよ。」
当時のくらやみ祭りは喧嘩祭りともいわれ、各宮での衝突が絶えなかったという。 大國魂
神社は大きく六ヶ所の神社を合祀しており、六所宮と称される。この各宮が太鼓どうしをぶつ
け合い、 ときには神輿でぶつかり合うことが日常の風景であったという。刃物沙汰もあった
ようで、その荒っぽさが故に祭り自体が中止に追い込まれたときもある。
このなか、弘一さんも石川保木講中役員の筆頭になっており、昭和26年5月5日、御本社太
鼓と四ノ宮神輿との衝突事件の際に、 太鼓講中の多くの人が悔しい思いをした事件が起こる。
このことが要因となり、当時可能な限りの大きさと思われる欅胴大太鼓の新調、 奉納をする
運びとなる。石川保木講中は、この太鼓新調にあたり寄付金集めに努力した(後に詳しく述
べる)。
そして、昭和27年5月、皮面口径1m29㎝、胴周4m61㎝、胴幅1m53㎝、国産欅の大太鼓
の奉納を迎える。 当時のことを弘一さんはこう語っておられる。「太鼓は浅草の宮本卯之助
商店で製作したもので、 出来上がったとき元講貫井の人達とトラックで引き取りに行った
んだよ。」
この年は文献上にも登場してくる年であり、各太鼓講中としても大きな行事ごとであった。
太鼓を作るときは、町内の世話人達の間で声が出て、有力者が世話好きの人を講元に頼んだと
いわれる。 この御本社太鼓は小金井市貫井の鈴木万吉氏を講元に頼んだ。太鼓製作にあたっ
ては貫井の高杉一之丞氏があたり、 宮本卯之助商店への注文もこの方がしたという。そこで
太鼓ができあがったとき宮本から高杉氏のところへ持って行き、 鈴木氏や高杉氏が世話をし
て貫井の人達が府中へ持ってきたという。だから府中町内側は、講元から太鼓を預かった形
になっており、 例大祭のとき、講中の者が来るまでは、町内の者は太鼓に手もかけられなか
ったという。
その後、石川保木講中はどうなっていったのかを尋ねると「自分らの代が府中の祭りに参
加していたのは確か、 昭和30年頃までで、太鼓を新調してから何年も経たないうちに府中へ
は行かなくなったよ。 その後は下の代の者が何年か行っていたが、祭り自体が中止になった
事もあって、講中としては行かなくなったのかな。 というのも進駐軍がこういう騒ぎはいか
んということで解散しろと府中に言ってきた。祭り自体を中止しろと言ってこちらも解散し
た。 それからは行かなくなった。」
戦後GHQの占領下におかれたれていた時代は、例大祭に対する制限が厳しくなっていた。
実際に進駐軍による特別注意事項として、神輿還御の終了時間短縮や交通規制制限、ササラ
廃止などが言い渡されている。 また府中市内でも新住民が増えるなか、野蛮な祭として例大
祭に対し批判の声が高かったという。 そのピークが昭和33・34年であったようで、社会全
体が伝統的なものに批判的な風潮が高かった時代であった。 当時の石川保木講中もこの渦に
呑まれていく形になった。石川保木だけではなく、他の講中も同じような苦境な時代を迎え
ていたのであろう。
「山内のあゆみ」によると、昭和30年代に入り、石川保木にも都市化の波が押し寄せ、青
年達が都会へ働きに出かけるようになり、 青年会の解散にともない、大太鼓への関心もうす
れ、府中へも行かなくなってしまったとある。
昭和20年代後半から30年代前半頃は全体的に神輿講中や太鼓講中として参加していた地域
がこなくなる時代であった。 石川保木講中にはこうした背景があり、御本社太鼓との関わり
が途絶えてしまうのであった。
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⑤石川保木はどうしてくらやみ祭りに参加するようになったのか
石川保木が、太鼓講中として参加するようになったのはいつ頃からなのかは、先述のとおり
である。ではなぜ、くらやみ祭りに参加するようになったのだろうか。 弘一さんは「うちの
家業は材木を扱っている仕事で、よく三多摩の一帯には仕事があった。 実際に大國魂神社の
木も切りにいったこともあるし、仕事は先代の頃よりで、その頃にあの辺の人達と交流があ
った。」と語られる。
三多摩界隈は御本社太鼓講中圏内である。その頃に太鼓講中の世話人、あるいは府中町内
の世話人と交流があったのであろうか。 また弘一さんは「その当時お祭りで実際に石川保木
講中の世話をしてくれたのは、御林(みはやし)呉服店の方で、 当時は行ったらすぐに帰っ
てこれず、祭り当日は店内を片して泊めてくれたよ。いつからかまでは分からないが、石川
保木は御林さんとのお付き合いから始まった。」と語られる。
当時のことを御林秀夫さんはこう語る。「当時は萬屋(よろずや)洋服店といい、御林呉
服店ではなかった。 保木さんとのお付き合いはその頃からだと記憶しているので、昭和の2・
3年遅くとも5年くらいからであったと思いますよ。」 当時は、秀夫さんの父親であられる御
林清さんがお世話をしていたと語られている。店のなかを片付け、お酒などを振舞っていた
という。 当時萬屋洋服店があった場所は現在では、別のものに変わってしまっているが、こ
の事実は府中番場町の方々も知っている。
その他には保木に蚕を買付けに来た人が世話人であったという説もある。明治期当時の保
木では養蚕が盛んにおこなわれていたのであり得ることだろう。 実際、元講貫井のある現在
の東京都小金井市、また御本社太鼓講中が多くある小平市周辺でも養蚕が盛んにおこなわれ
ていたという。(鈴木新田講中談)
6.府中の家並地図より(昭和5年頃の萬屋洋服店所在地)

このように、石川保木がくらやみ祭りに参加するようになるのには、地域どうしの産業的な
関わりが主となり、そこからつながりが生まれていくようになったのだと考えられる。実際こ
のような関係から例大祭へ参加するようになったという経緯は他の宮にもあるのではないだろ
うか。
人と人とのつながりが文化を築きあげ、現在でもくらやみ祭りはこうした多くの人達によっ
て守られているのである。
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⑥御本社御太鼓新調寄付金
昭和27年5月に新調された御本社太鼓だが、この当時活動の中心はもちろん元講貫井講中
であり、その先達には総代・鈴木万吉氏、副総代・鈴木卯一氏、会計・浅見喜平氏、小林秀
次氏である。寄付金集めのときの会計監査人は、神山金作氏、島野武治氏、長澤佐一氏、小
川仙之助氏、小内昌祐氏、井口佐七氏、清水信明氏、飯島弘一氏、矢沢桂助氏、円掘繁久氏
、高杉新手氏、浅見明氏、大沢一雄氏、近藤万良氏、田中義行氏、高田氏である。この時の
寄付金決算書をみると、貫井講中(南組/中組/西組/東組/北組/中部)で金144,620円を集め
、太鼓新調に金100,000円を府中町(番場町)へ、受入目録代として金10,000円、その他
として支出されている。
上記の金100,000円と他講中が寄付した金230,380円・合計金額330,380円によって大太
鼓が新調・奉納された。次に掲げる内容は「平和記念太鼓奉納募金帳」に記載されているも
のである。なおこの募金帳は当時各太鼓講中に配られているはずであるが、現在は鈴木新田
講中(下鈴木)の方が所蔵しているものしか確認できていない。
各講中寄付金額 |
貫井元講 |
(小金井市) |
金 100,000円 |
下保谷講中 |
(西東京) |
金 6,200円 |
堀野中講中 |
(小平市) |
金 17,700円 |
神代村入間講中 |
(調布市) |
金 10,320円 |
上鈴木講中 |
(小平市) |
金 10,450円 |
保木講中 |
(横浜市) |
金 20,050円 |
小川山家講中 |
(小平市) |
金 10,250円 |
平講中 |
(川崎市) |
金 19,450円 |
下鈴木講中 |
(小平市) |
金 32,700円 |
菅生講中 |
(川崎市) |
金 5,000円 |
回り田講中 |
(小平市) |
金 4,600円 |
片山講中 |
(新座市) |
金 5,000円 |
堀鈴木講中 |
(小平市) |
金 6,450円 |
大沼田講中 |
(小平市) |
金 3,500円 |
野中四組講中 |
(小平市) |
金 43,300円 |
府中町目録代 |
(番場町) |
金 20,000円 |
小川新田講中 |
(小平市) |
金 11,310円 |
小川山家 島野民蔵 |
(小平市) |
金 300円 |
小樽講中 |
(練馬区) |
金 3,800円 |
合計金額 |
|
金 330,380円 |
以上、内訳としては太鼓代・金280,000円、引綱太鼓綱代や宮本卯之助商店との連絡交通
費、送り込み酒肴料、その他全てが支出された。詳細は下記のとおりである。
大太鼓代 |
金 280,000円 |
引綱太鼓綱 |
金 3,440円 |
募金帳代 |
金 270円 |
皮油代 |
金 200円 |
紙代 |
金 885円 |
記章代 |
金 1,040円 |
領収書代 |
金 535円 |
筆墨代 |
金 105円 |
□□□□ |
金 200円 |
米代 |
金 2,800円 |
通信費代 |
金 1,169円 |
肴野菜調味料 |
金 2,503円 |
収入印紙代 |
金 160円 |
運転手チップ |
金 600円 |
原紙代 |
金 50円 |
飾台立札代 |
金 250円 |
会議費代 |
金 2,050円 |
わら綿代 |
金 120円 |
世話人きりつけ代 |
金 2,000円 |
食事準備礼金代 |
金 300円 |
宮本太鼓店 職人酒肴代 |
金 1,600円 |
自動車運賃代 |
金 5,000円 |
燃料代 |
金 380円 |
送込酒肴料代 |
金 8,480円 |
記念樹代 |
金 500円 |
大國魂神社御神酒代 |
金 1,740円 |
特別奉納代 |
金 700円 |
各講中世話役人と 府中町総代懇談会費 |
金 1,700円 |
手拭代 |
金 245円 |
宮本太鼓店各講中 世話人連絡交通費 |
金 8,000円 |
神官礼 |
金 500円 |
決算報告書代 |
金 350円 |
打初式御供物 |
金 300円 |
雑費 |
金 1,308円 |
紅白布地 |
金 900円 |
合計 |
金 330,380円 |
余談であるが、1880年(明治13年)に番場町が神輿二基を受持つようになった当時、先払
太鼓は神社管理の2張りだけであったが、 1883年(明治16年)に御本社の先払太鼓が43円67
銭で新調された。このとき貫井村から金15円の奉納があり、 この御太鼓は現在小平廻田の氷
川神社にあるという。1899年(明治32年)に、金139円で新調された御太鼓の際にも、 貫井
村、世田谷、向ヶ丘村平、片山村栗原、小手、東村山、狭山、清水、石川村保木から合わせて
金70円の奉納があったという。
この貫井神社で管理されている御太鼓は、口径95㎝、胴周109㎝、胴幅112㎝の刳り抜き
胴の太鼓で材質は欅、 牛皮張りのものである。現在の御本社太鼓よりもひとまわり小さい。
製作したのは浅草にある宮本卯之助商店。現在の社長は7代目となり、 全国著名神社、宮内
庁楽部などに太鼓・神輿等を製作している。
副社長の宮本氏によると、現在例大祭で使用しされている御本社太鼓の原木は、福島県の
会津地方からきていると言う。 「昭和27年頃、この当時欅材はおおかた福島県の会津より
仕入れていました。 現在その当時の者が生存していない為ハッキリとまではわかりませんが
、会津には間違いはなく、南の方ではないと思います。」
現在使用されている御本社太鼓を見てみると、一部へこみがあることに気付く。 これは原
木の腐食部分を削り落した名残であると見られ、御本社太鼓はかなりギリギリまで原木の大
きさを生かして作られたのだと考えられる。 厳選された原木は荒胴と呼ばれる形に整形され、
最低でも3~5年間という長い年月をかけて自然乾燥される。 この乾燥期間は長ければくるい
が生じず良いとされ、御霊宮の太鼓の原木が見つかったとき、しばらく世話人に知らせなか
ったという。 知らせると太鼓を早く作るようせかされるからだという。
また、「たまぎり」といって同じ原木から複数の太鼓を製作することもあるという。御本
社太鼓には、幾つかの兄弟太鼓があるという話しも実際にある。
現在、この例大祭に使用されている御本社太鼓の胴面に石川保木の関係者は以下の名が刻
まれている。
・元石川町保木
・飯島 弘一
・飯島 一郎
・根本 親三
・飯島智可良
・保木町青年會
8.昭和27年御本社太鼓新調記念の写真

9.平和記念太鼓奉納募金帳

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⑦保木大太鼓
大國魂神社例大祭の影響をうけ、石川保木でも御太鼓を製作している。ここではこの御太
鼓ついて少しふれてみたい。 この御太鼓は大正3年(1914年)7月15日製作で国産欅胴。
総重量およそ60㌔、皮面の口径は約二尺九寸八分(約90㎝)、胴周3m37cm、胴幅103cm。
小ぶりではあるが、 国産欅としてはこれもまた貴重な太鼓である。5回目の皮の張替を宮本
卯之助商店で行った時、6尺の太鼓と交換して欲しいと申し出られるほどである。 今年で奉
納97周年を迎える。当時200円という金額をかけて作られており、これらの費用は全額寄付
でまかなった。
当時の一般的な労働階級の総収入は1ヵ月あたり28円50銭ほどだという。大卒公務員の初
任給で70円くらい。 現在の金額に換算するのにはご想像にお任せするが、大正3年8月には
第一次世界大戦が勃発、 その後はシベリア出兵のために食料品などが値上がりした時代で、
この前後の農家の生活は困窮していた時代である。 当時の石川保木地域では主な産業は農業
であり、金額としてはそれなりの額ということになるのではないだろうか。 なかには、この
寄付金を出すために多摩川の堤防工事で働いて金をつくった人もいたとか。
製作は浅草にある宮本卯之助商店。保木の御太鼓には、幾つかの兄弟太鼓があるという。
一つには大國魂神社御本社太鼓(明治32年製作)である。 二つ目は川崎市宮前区平の御太鼓
(明治34年製作)も兄弟太鼓だといわれるが真相はいかに。製作先でも事実はもうわからない
という。
御太鼓を作るきっかけとしては、くらやみ祭りに参加していた若い者たちが、御本社太鼓
の魅力に魅せられたのだといわれる。 これまでのことでわかるように、古くから太鼓講中と
して府中の例大祭に参加していたのであるから、その流れを強くうけているわけである。 そ
れ故に叩き手、警固の作法などもほとんどが同じである。
保木には三つの神社がある。十社宮(旧十社権現社)、下の八雲神社、上の八雲神社が鎮
守している。 十社宮の創立は寛延2年(1749年)であり、祭礼は10月第2日曜日。下の八雲
神社の創立は不明だが、内宮にある棟札によると嘉永2年(1849年)に再建されたことがわ
かる。 現在の社殿は昭和58年7月15日に再建された。上の八雲神社は平成4年7月に再建。
両社とも牛頭天王(スサノオ)を祭神とした祇園信仰の神社である。祭礼日は7月15日に近
い日曜日で天王様として親しまれている。
現在保木の御太鼓は各神社の祭礼日に使用されているのだが、ここで保木太鼓の製作奉納
日に注目していただきたい。 御太鼓の奉納日と八雲神社の祭礼日はともに7月15日である。
この御太鼓はどちらかというと十社宮ではなく、八雲神社に合わせて奉納されていたのでは
ないだろうか。 寄付者名は胴に刻んであり、石川青年会保木支部の13名の名と、次に寄付
連名表に寄付金と62名の名が刻まれている。寄付金と寄付者名は次の通りである。
金弐拾円 |
関戸政吉・八木下磯五郎 |
金拾円 |
関戸平五郎・飯島久弥・飯島キク・関戸小次郎・小野辺儀平治・
小野辺高次郎・根本伊兵衛・八木下時治・大久保信太郎・
大久保喜三郎・関戸民部 |
金六円 |
飯島武平・飯島甚右ェ門・村田惣吉 |
金五円 |
横倉作次郎・村田勘蔵・村田長治・飯島勝右ェ門・飯島宗次・
飯島嘉蔵・飯島彦作・近藤啓次郎・村田林蔵 |
金参円 |
小野辺冨治・小野辺柳蔵・八木下鎌吉・八木下虎之助・小野辺辰之助・
黒沼三之凾・飯島留吉・根本房吉 |
金弐円 |
飯島忠次郎・関戸国五郎・横倉林蔵・小野辺助次郎 |
金壱円五十銭 |
近藤浅五郎・小野辺トシ・横倉辰之助・八木下里喜造・近藤源左ェ門・
村田早吉・小野辺幾蔵・小野辺織蔵・飯島喜之助・飯島弥吉 |
金壱円三十銭 |
村田金五郎・大久保宗助 |
金壱円 |
小野辺了助・松本文兵衛・近藤勇次郎・志村和重・大木米蔵・
倉本半次郎・小野辺文蔵・小野辺仲蔵・関戸堯二・村田吉次郎 |
金八十銭 |
飯島文之凾 |
金五十銭 |
飯島與吉・村田米蔵 |
以上寄付金合計274円40銭 |
9.保木の御太鼓

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⑧新しい石川講中
ここまで、過去の石川保木講中の地域性と概要、活動内容をまとめてきた。最後に、新た
に発足いたした石川講中について触れておきたい。
石川地域から、なぜ太鼓講中としての活動を再起することとなったのか。また、なぜその
名称が石川保木講中ではないのか。 過去に存在していた石川保木講中とは少し異なる内容と
、これからの動向をここにまとめておく。
現在の石川保木地域は、世代交代と著しい街並みの変化を迎えている。地元では祭礼が継
続されてはいるとはいえ、 過去この地域に御本社太鼓講中が存在していたことを知る人は殆
どいない。 さらに御本社太鼓講中、府中町方の人々とのつながりも完全に途切れてしまって
いた。 それほどブランクが長かったといえるが、このような状況のなか、また太鼓講中とし
て府中の例大祭に参加することができるようになった経緯を記しておきたいと思う。
始まりは、ご縁あってか番場町内の例大祭関係者と保木の者とのつながりがきっかけであ
った。 時代の恩恵とでもいおうか、インターネットをとおして知り合うことができ、それが
たまたま、当時番場町連合自治会長の御子息であったのである。 この方は、くらやみ祭りの
文化、歴史に精通しており石川地域のことも調査していたのである。
これを機に、当時番場町のおとりはからいがあり、客人扱いとして一時的に例大祭へ参加
するようになったのである。 その後は保木地区に留まらず、旧石川村内の平川、下谷といっ
た地区からも数名の有志が集まり、 貫井講中の預かりとして数年間参加させてもらうように
なり現在に至っているのである。 この活動中に、貫井元講の太鼓長より講中の独立を提案し
ていただき、この目標に向かっての土台作りに努力していくようになったのである。 という
のも祭礼に参加することで見えてくるお付き合いの難しさは、石川側の者も容易ではないと
感じていたからである。 中途半端な気持ちで講中を立ち上げてはならないと話し合いを重ね
、自分達の活動目的と気持ちを再確認し、 まずは組織としての土台をつくり上げていく必要
があったのである。
この程立上げさせていただいた太鼓講中の正式名称は「石川講中」である。このなかに保
木の名はない。 過去石川には石川の、保木には保木の独立した講中があったわけではないこ
とは本文の中で説明してきた。 だとすると、本来であれば石川保木講中という名称を引き継
ぐべきである。しかし、現在の保木地域に太鼓講中として、 組織的に活動できる体制はなく
、歴史的な事実を受け入れることすらも困難な状況なのである。 このようななかで保木以外
にも平川、下谷といった、旧石川村範囲より複数の地域から活動目的に賛同する有志が集ま
り、 今の組織を構成している。以上のような事柄を踏まえ、これからの活動目的とその範囲
を考慮すると、 特定された地域を指す石川保木講中という名称はあまりにも限定され相応し
くないと判断したのである。
しかしながら現在太鼓講中として活動できるのは、過去保木の先人方の努力と功績があっ
たからだということを忘れてならない。 その功績に対して敬意を払い、想いを継承するべき
であると会員皆の意見が一致した。このことに加え、 これからより一層広範囲な活動をして
いくとともに、古い地名を用いて原点に帰るという意味から、「石川講中」という名称が相応
しいとしたのである。
石川講中の活動とは他でもない。大國魂神社を中心として、伝統文化の保持保存に努める
ことである。 大國魂神社例大祭の形態は、時代により変化してきているとはいえ、人と人と
のつながりがこの祭礼を支えていることは過去にも現在にも変わりがない。 このような稀有
ともいえる素晴らしい伝統文化行事には、学ぶべき点が多くあり、人々を惹き付ける魅力が
あるのではないだろうか。 これら参考すべき点を大いに学び、地元である石川地域の発展に
も役立てるべきだと会員皆が考えている。それは保木に留まらず、 石川地域全体という広範
囲なスケールなのである。
この程立ち上がった石川講中は、石川保木講中の復活といえば復活であり、新設でといえ
ば新設である。 どちらにしてもその内容が大事であり、太鼓講中としての役割を全うし、そ
れを継続していくことにこそ意味があるのではないか。 また、過去の石川保木講中の名に恥
じない為にも、これからの活動をより一層活発にしていき、大國魂神社例大祭神事と、 石川
地域相互の発展に努力すべき講中組織なのである。
10.石川講中のシンボル
 |
|
あとがき
本文でご紹介した石川保木講中が、くらやみ祭りに正式参加しなくなってから50年余りの
月日が経過した。 地元石川保木地域では、現在都市化が進む一方で、祭礼という概念が薄ら
ぎ衰退しつつあるよう思える。 また現在では負担ばかりが目に付き、祭り本来の楽しみや、
しきたりすら守っていくことが困難であるようにみえる。 後継者不足、行事の短縮簡略化、
地域住民からの苦情などに危機感を感じずにはいられない。大きな祭りは別としても、 村
祭りではこうした状況が著明にみられる。このような現象は、全国的な問題なのではないか
と思うのは私個人だけであろうか。
なぜいま「くらやみ祭り」なのか。そう問われれば答えはこうである。このような時代だ
からこそくらやみ祭りなのだと。
確かにこの祭礼の華やかさや雄大さには魅力がある。しかし、ここに至るまで決して平坦
な道のりできたわけではない。 そこに関わる人々の結束力と信仰心によって、幾度の危機を
乗り越え、現在のような厳粛であり力強い祭礼となっているのである。 このように人と人と
のつながりがくらやみ祭りを支え、そこに伝統文化を築く土壌ができるのであろう。 また、
それらを受け継ぎ守る人間を育成しようとする各々の努力こそが、この祭礼の最大の魅力で
あり核なのだと思っている。 祭りは継承という性格を強く持っている。親から子へ、人から
地域へ、地域から文化へと時代が変わるにせよ伝統文化の原点はここにある。 これこそいま
の時代に必要なことであり、見直すべき事柄なのではないだろうか。
しかし、伝統文化というとアレルギーを起こす方がいるかもしれない。 それは個々の集団
が個別に有する慣習を閉塞的に受けとってしまうからではないだろうか。 所謂、旧住民と新
住民間の温度差である。このような壁はどこにいってもあることで、文化継続にとってこれ
からも双方の課題となるであろう。 個人的な意見ではあるが、旧住民と新住民の間に差別は
あってはならない。 しかし区別は必要である。それは、同じ場所で生きていく共同体として
お互いへの礼儀である。立場役割こそ違うが、共感し合う努力は必要である。 いまは一部の
人々だけで祭礼が担える時代ではない。例大祭に関わる町方と講中の関係、地域の関連性を
調べていくなかでもそれを窺い知ることができる。 様々な立場の人々が、支え合い各自の役
割を全うする。このなかで得る活力が地域社会をさらに発展させていくことになるのでない
だろうか。 それを教えてくれる場が、くらやみ祭りであり各地域の祭礼なのである。私は、
祭りの意義や概念を難しく考える前に、感じるということを一人でも多くの人達に味わって
ほしいと切に願う。 また、そのような環境を維持、拡大していく努力が、いまの私達に問わ
れているのではないだろうか。 石川講中の者はこのことを自覚し、様々な人々のつながりを
大切に思い、信念をもって今こそ行動すべきである。
過去、石川保木講中の役員であられた飯島弘一氏に、太鼓講中をいま一度この地域から立
ち上げたいと相談したときにいただいた言葉がいまでも胸を熱くする。
「お前らがやれ。頑張れよ。」
平成23年1月11日記
|
飯島 芳則(いいじまよしのり)
1980年生まれ 保木出身
本文に登場する飯島一郎の孫
<参考文献>
「山内のあゆみ 石川編」横溝潔著
「都筑郡山内村全圖」著者蔵
「新編武蔵風土記稿」歴史図書出版社
「大國魂神社の太鼓とそれをめぐる習俗Ⅰ」府中教育委員会編
「大國魂神社の太鼓とそれをめぐる習俗Ⅱ」府中教育委員会編
「大國魂神社の太鼓調査報告書」府中教育委員会編
「甲州街道 府中宿」府中郷土の森博物館発行
「平和記念太鼓奉納募金帳」長澤佐利氏蔵
「府中の家並地図」府中市教育委員会編
「文化財の保護 第42号」東京都教育委員会編
「青葉のあゆみ」郷土の歴史を未来に生かす事業実行委員会編 |